幼少期~小学校

1978年(昭和53年)2月14日 葛城市(旧新庄町)中戸に生まれました。

父、母、姉、祖母の西川家5人家族の長男として健やかに育てられました。この頃は父母ともに家業の立上げをしたばかりで多忙であった為、祖母によく面倒をかけていました。

1984年(昭和59年)葛城市立(旧新庄町立)新庄小学校付属幼稚園卒園

幼稚園では給食が大嫌いで、床に落として先生に怒られていた記憶があります。私の長男も卒園しており親子そろってお世話になりました。

1990年(平成2年)葛城市立(旧新庄町立)新庄小学校卒業

小学校時代はスポーツ少年団のサッカー部に入団し、地元の多くの同級生や先輩、後輩と一緒に汗を流し楽しく過ごしました。又、祖父のすすめもあって剣道クラブにも入り礼儀作法から教えて頂きました。小学校生活では授業より友達と遊ぶ休み時間が楽しみで登校していました。先生には「奇声を発しない!」とよく注意された記憶があります。放課後や夏休みには友達と一緒に自然に恵まれた野山を駆け回りサワガニやカブト・クワガタ捕りに夢中になっていました。
私の長女も卒業しており親子そろってお世話になりました。

中学校~高校

1993年(平成5年)葛城市立(旧新庄町立)新庄中学校卒業

中学校生活ではとにかく目立つ事が好きな生徒でした。文化祭では全校生徒の前で、浪漫飛行を上手い下手は別として熱唱したこともありました。又、部活動はサッカー部に所属し厳しい指導のもと県3位の成績をおさめました。この頃から仲間との絆や勝負への執着が芽生えた時期でありました。

1996年(平成8年)奈良育英学園高等学校卒業

サッカー強豪校であった奈良育英高校へサッカー推薦で入学しました。毎日、朝は5時30分の電車に乗り、帰りは夜22:00に帰宅する生活を3年間続けました。当時の練習を思い出すと今でもサブイボが出ます。。。そんな苦しい練習と指導のおかげで全国3位の成績をおさめさせて頂きましたし、国体選手にも選出頂けました。又、成績よりも重要な多くの感動や絆を頂きました。この時の教えや体験が現在、私の礎になっていることは確かです。又、この時に出会いクラスメイトでもあったのが私とともに人生を歩んでくれているかけがえのない奥さんです。

  ↑この年全国大会で3位になりました。

大学~社会人

1997年(平成9年)福岡大学スポーツ科学部中退

始めて地元を離れ九州のサッカー名門福岡大学に進学するも、右足首をケガし手術は成功したものの挫折を味わい、自身の将来のことを考えるようになりました。悩んだ挙句、色んな方々に迷惑をかけましたが自身の進むべき道を定め大学を去る決意をしました。

2001年(平成13年)大阪芸術大学芸術学部建築学科卒業

家業でもあった建築設計の仕事に携わりたいという将来の道を定め再入学をしました。この当時は今までとは違った価値観を持った人たちと関わることが新鮮で学業だけではなく様々な学びを得る時期でした。又、アルバイトはバーテンダー、土木工事、コンビニ等の清掃、葛城市の花火屋さん等を複数こなし自身で働いた対価を得る喜びにも出会いました。

2001年(平成13年)有限会社創和建築事務所入社

当時は就職氷河期の中、技術職等は経験者が優遇される時代でもあったので、就職が困難な状況でありました。でも優秀な同期は困難な状況であっても就職してましたが。。。そんな事もあり1年間は家業でもあった有限会社創和建築事務所にお世話になりました。

2002年(平成14年)株式会社桝谷設計入社

奈良県において歴史があり、公共施設や大型の施設を手掛けていた設計会社に入社しました。そこでは設計部として11年間従事しました。ここでは、多くの案件に携わらして頂きました。特に自身が卒業した高校の建替えの設計担当として任せて頂いたのが嬉しかったです。ここでは、技術や知識についての学びは言うまでもなく。ひとつのプロジェクトをゼロベースから構築していくスキームを身につけさせて頂いたと感じております。

2013年(平成25年)有限会社創和建築事務所入社、株式会社クリエイト・ジオイド設立~現在

代表者は変わっておりましたが、父親が創業した地元葛城市の設計事務所に入社しました。前職では県内外問わず広い地域を対象とした案件が多くあったのですが、現在は地元に根付いた事業所である為、身近な相談や案件が多く、この頃から地元に対しての意識が強くなりました。何十年も前に建設した事業所や施設については老朽化が進み、いざ、建替えや改修を計画しても当時はそこまで意識していなかった都市計画法や建築基準法に抵触する等の問題が起きているのが実情であります。そのような事を親身になって考えていくうちに、地元で頑張る企業が成長し輝かなければならないと思うようになりました。

又、この頃から葛城市商工会青年部や一社)葛城青年会議所等の自身が住み暮らすまちづくりを本気で考える人たちと出会いともに活動し、より一層この葛城市に対する想いが強くなりました。特に自身が実行委員長を務めさせて頂いた、第1回かつらぎ花火大会に関しては葛城市納涼花火大会の復活という大きな壁であったにも関わらず仲間に助けられ成し遂げられたことは私の中での一生の宝物となっております。